神功皇后陵今回最も楽しみにしていたものの一つが神功皇后陵です。神功皇后は実在の人物とはされていませんが、その痕跡はいろいろなところで見受けられます。 父は息長系、母は葛城系と言われています。 息子は有名な仁徳天皇の父である応神天皇です。 さて、神功皇后とはどんな人物だったのでしょうか。 卑弥呼のように巫女的な力を持っていたのでしょうか。 女性ながらにカリスマ的な政治力を持っていたのでしょうか。 補佐する人がいたのかも知れません。 なんとも、魅力的な人物です。 とても良い天気です。 私と先輩はここで、お昼ごはんを食べることにしました。 おにぎりとサンドイッチです。 あまりに暑いので誰もいません。 ちょうどいいです。 お墓の前でお昼ごはんを食べるなんて何とも不思議な感じかもしれませんね。 でも、私にとって古墳はお墓と言うよりも過去からのタイムマシン、その当時の先端技術のテクノロジー。 また、被葬者の権力範囲と深くかかわっていたのでは、などと色々想像させてくれるロマンあるれる場所なのです。 当時はここで祭祀が行われていたのかも知れません。 それぞれに、思いっきり着飾り、緊張の面持で厳かに祀りごとが行われていたのかも知れません。 笛の音や鈴の音が流れていたのかも知れません。 権力者たちは何を考えていたのでしょうか。 美しい姫たちは何を思っていたのでしょうか。 ↓は神功皇后陵といわれているところです。 次は成務天皇陵です。 成務天皇の父はヤマトタケルの父でもある景行天皇です。 つまり、成務天皇はヤマトタケルと兄弟です。 しかし、成務天皇の次の天皇はヤマトタケルの息子仲哀天皇です。 仲哀天皇の皇后がさっきの神功皇后で息子が応神天皇です。 (孫が仁徳天皇) つまり、成務天皇のはあまり有名ではないのですが、景行天皇とヤマトタケルの息子をつなぐ重要な役割をもった天皇なのです。 次は垂仁天皇の皇后、景行天皇の母日葉酢媛陵です。 11代垂仁天皇は在した最初の天皇とされる10代崇神天皇の息子です。 崇神天皇時代に始まった全国統一の動きは、この垂仁天皇の御代においても継続して進められ、この帝の御代にも政治の中央集権化は進められたと考えられています。 また斎宮(いつきのみや)の齊王である皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照大神を祀るための新たな場所探しを命じられ、近江や、美濃を巡ったあげく伊勢の五十鈴川の辺に祠を建てた。 これが伊勢神宮(内宮)の始まりとされているのです。 ↓日葉酢媛陵です。 このあとは佐紀神社へと向かいました。 |